昭和46年03月12日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
昨日の朝もここを頂きました。どうでしょうか。昨日朝頂いた御理解を本当にそうだとしっかり信心の帯が出来たでしょうか。御理解を只頂くだけじゃなくて、しっかり出来ると云うことを、信心でありますから、その事が矢張り本気で願わなければいけませんね。昨日は神がよく見ておる、しっかり信心の帯をせよというところを、焦点をおいてそこを強調しての御理解でございましたね。
ですから例えば、しっかり信心の帯をすると言う事は、一生懸命信心をするという、参るとか拝むとかいうのじゃなくて、本気で今日も信心の稽古をさせて頂くという姿勢をつくる事だと頂きましたね。だから昨日はその姿勢が出来たかどうかと言う事です。今日はどう言う事が起こってもどう言う事を言われても、それで信心の稽古をさせて頂くと言う様に、果してそこんところにいよいよそこに焦点を置いて本気にその気になったかどうかと言う事です。
これは御教えというのは、只分かっただけでなく、本当にそうだなと自分の心が合点する、いわゆる体がそれを実行すると、言う事になりますとね、本当におかげというのは、それを、それを待っとったんだと神様が言うて下さる様に、おかげを頂くんですよね。おかげを感ずるんです。昨日或方が、いうなら大変なお願いとでも申しましょうかね。普通では考えられない程しの、いうなら御無理ばかり申しましてと言う様なお願いなんです。そのことをお願いになりましたので、私ここでお知らせ頂きますとに。
楽という字、合楽の楽、合楽の楽と言う字をね、あのこんな風に頂くのですよ。白と書いて糸を両方書いて下は木ですよね。そこを木ではなくて水と頂くんです。矢張り水という字を書いても木と読みますよね。水という字ですけど木に見えるでしょう。どう言う事かというと、楽ですと言う事。もう本当にこんな大変なお願い、こんな御無理を申し上げてと言う様な事でもですね、神様の目から見れば楽です。楽です一つも難しい事はないです。しかもこの水という字はお恵みと仰る
。神様が下さるおかげは一つも難しゅうない。下さるという気になればもう楽なことなんです。まあ私自身もそのお届けさせて頂いてから、どういう風に楽になって行くんじゃろうかと思うとりましたら、矢張りおかげになっとります。そかも楽におかげ頂いとる。そしてその方がいわれるのにですよ、私はそれを聞いてからですよ、ははあここのおかげはあったなぁと思ったんです。昨日、一昨日の御理解で天地日月の心になること肝要なりと、日月の心でという御理解があった。
あの日月の心肝要なりという、あの日月の心を聞かせて貰うときに、もう自分にこれが欠けとったと真から思うた。もうこれからこれに取り組む以外にないと思うて、それに取り組ませて頂いた。或事を矢張り実行に移されておかげを頂かれました。とその話を聞かせて頂いて、ははあやはりその気になれば、私共は本気でその気になるときに神様は、どういうおかげでも神様は楽々と下さることが出来るんだなと言う事。口には実行しますというても、神様御覧になるとそれは口ばっかりと思いなさるか知れません。
本気でない場合、神様は先の先まで見透しです。ですから今日皆さんに昨日頂いた、神が観ている、しっかり信心の帯を締めよと、信心の帯を締めよと。信心の帯をすると言う事は、本気で今日も信心の稽古をさせて頂きますと思い、それを行じ、昨日一日中に表したかどうかと言う事なんですね。これ程しのおかげ頂いたらこれこれの事は実行致しますと、例えば、言うても思うても、それが人間のことですから、いつの間にか元の黙阿弥に戻ると云った様な軽いのであるならばね、神様は下さらない。
だからそのところを本気で願わなければならないなと思います。
丁度、昨日の御理解でいうならば、本気で信心の稽古をさせて頂きます。よしそれが馬鹿といわれても、ま乞食じゃといわれても、泥棒じゃといわれてもね、それを信心の稽古のいわば材料にさせて頂いて、一段と信心を進めますと言う事、最近教団でいわれとります、御取次の道の実践としてと言う事、言う様なポスターなんかに書いていわれておりますね。お取次の道の実現、実現体というものがです、最近は御本部の御造営と御取次の道の実現としての御造営成就と言う事。
御取次の道の実現、金光様の御信心の道を取次の道とこう申します。これは他の宗教にない一つのシステムですからね。金光様の御取次と言う事は、いわゆる御取次の道の実現として、私御造営と言う事ならいろいろ他のことに最近結んで行くのですけど、でも私は御取次の道の実現としてわたしは先ず立教神伝を体してと言う事にならなければいけないと思うですね。御取次の道の実現としての立教神伝の体して行く。立教神伝を体して行く。この幣切り堺にというあれですね。
氏子あっての神、神あっての氏子。繁盛致し、末々親にかかり子にかかり、相よかけよで立ち行く。いわゆる立教神伝、神様が教祖生神金光大神に裨みたのみをなさる、そのことをです金光大神がお取次ぎして下さる。そのお取次して下さるその事を体して行かなければならん。立教神伝を体してと言う事はどう言う事になるかというと、次の天地書附けとですね。
立教神伝を体して、天地書附を内容を自分のものにして行く、自分の信心にして行くという、それを私は社会に広めて行くと言う事がお取次の道の実現として、立教神伝を体し、天地書附を奉じそれをその内容を頂き奉ると言う事。そのいわばお道のいわゆる精神というか、天地書附、いわゆる和賀心というか、私共が全ての事柄の上に表して行く。自分の周囲にそれを表して行く。
それを内容としてそこから生まれて來るところのおかげ、おかげは和賀心にありと仰るものが、そのおかげをもって私は御造営成就と言う事になるのじゃなかろうかと思うのであります。御取次の道としての御造営、成程結論がそこに出ておるといえばそれまでなんですけれど、けれども私は只御取次の道の実現としての事だけ。お取次の道の実現として御造営と言う事が結ばったんでは、どうか私はおかしいと思うんですね。
お取次の道の実現として行くために、どんどんお供えをして御造営のことに奉仕しなければならないというのでは、お取次の道の実現がと言う事は、立教神伝を体してと言う事にならなければいけない。神の願いを願いとして受けて行かねばならん。それを金光大神が取り次いで下さるのだ。そこに神も助かり氏子も立ち行くと行ったようなおかげも頂き、しかも立教神伝を体して参りますと天地書附と言う事が、次の問題になって参ります。天地書附を自分のものに頂いて行くと言う事。
そこからどう言う事になるかというと、おかげは和賀心にありと仰せられる、和賀心におかげがあるというその和賀心をもって御造営なら御造営しなければならないと思うのです。そこでですね、今日五十八節、昨日は後半のところの神がよう観ておる。しっかり信心の帯をしろと言う事であったが、今日矢張り五十八節の前半のところ、人が盗人じゃというても、乞食じゃと言うても腹を立ててはならぬとこう言う事。御取次の道は立教神伝を体することである。
そこには我情我欲を捨てて、神頼みをひた受けに受けられた教祖の神様の御精神と云うものを頂いて、そして本気で神も助かり、私共も助かって行く道を本当に行じて行く。その行じて行く根本になるものは和賀心である。それが天地書附である。その生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあると仰せられる、そこん所を願うて行く所のおかげ、和賀心そこでその和賀心をもってです私共が、お前は盗人とじゃなと、お前は乞食じゃなといわれた時です、果してどういう答が出て來るであろうか。
ここで腹を立ててはならんとこういうておられる。だからその腹を立ててはならんと云う所をです、私は腹を立てると言う事だけでなくてね、そこからの神心が生まれて來ると云う結果があると思うんです。お前が乞食の様な男じゃがな、お前は泥棒じゃなと、例えば云われましても、これはまあ厳密に云うたら成程、泥棒はしたことはない、又乞食もしたことはないけれど、果して厳密に云うて泥棒根性とでも申しましょうかね、又は乞食根性とでも申しましょうか、厳密に云うたら無いことはない。
皆有るんじゃないだろうか。まあ大きく戦争をして国を取り合いをする。これは大きな泥棒根性ですよね。戦争をして相手を敗けさせてから相手の国を取ろうというのですから。国と国とが泥棒根性を起こしているのですよね。ああして貰わにゃならん、こうして貰わにゃならん。もういよいよ乞食根性ですよね。ですから、厳密にいうて参りましてですね、そこんとこを成程泥棒といわれたが、本当に自分は泥棒しとるのと同じだと、例えば之を極言ですけどね、キリストが言うておられる様に。
沢山の人が寄ってたかって春を賣るという、いわゆる淫売婦と辱めておったと皆が、その時にキリストが言っておられる。皆ね石を投げたり悪口を言ったりしとるが皆その心のないもそれのないものだけが打てるのだと、叩けるんだと言ったと。お前の心の中にそういう心が無いかと言うたら、皆がそれぞれ引いて仕舞ったと言う様なお話が御座います。キリスト教の中にその淫売婦だけが汚いのじゃない、その淫売婦と同じ様な心をお前たちも銘々が持っておるんじゃないかと、成程淫売はしたことはないかも知れん。
けれどもそういう心を持っているならもう同じじゃないかと言う事。だからそういう心の無い者だけが打つ資格があるのであって。そういうものが内容に、あるならばお前達にも打つ資格はないのだと言われた時に、皆手を引いたというのですから皆その心が有ったと言う事になる。お前は泥棒だと乞食だと、俺がいつ泥棒したか乞食したかと、例えばいきり立つ前にです果してそういう泥棒根性が自分の心の中に有るか無いかを厳密に分からせて頂いてです改めて行かねばならないと。
同時にただ今申しますように私共が立教神伝を体し天地書附をいよいよ私共が日々そのことを日々というよりも、もう刻々です生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと。そのおかげは、その和賀心にありと仰せられるから今月今日只今をです本気で和賀心、和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さいという姿勢、そういう私しは生き方。そして本気で信心の稽古をさせて頂くと言う事。いわゆるそこんところをしっかり信心の帯を締めると言う事と言う様に昨日頂いた。
だから、私共がです、いわゆる本気でです、そこんところに取り組ませて頂いてです、今私が最初に申します様に、初めに申します様に、真の御理解を頂いて、本当に私には天地日月の心というか、取分け私には日月の心が欠けておることが分かったといわれる方が、その方がその翌くる日、いわば大変な御無理を申し上げますと言った様な願いをされるときに、神様は楽だといいなさるとじゃから、難しいことは一つもない。
もう私共がその気に成るときです、もうその気になることが確かめられたときです神様が下さるおかげはもう楽なのです。今度あげんいいよるばって、また失敗するか知れん。それでもまあ、あげんいいよるからおかげをやろうという場合もございましょう。けども私共がもうこの人は、もうこの男は間違いがないという程しに、まあ例えば本人がです、本当に私日月の心が欠けておったと悟らせて貰う、もう分かるでなくて、もうこれは悟りです。悟れたとき、神様は次の難儀な問題も。
普通で云うならとてもお許し頂けようとは思われない、おかげ頂かれようと思われない、その事柄を神様は楽だと云うて下さる。私共がね、苦しい時にはいろいろ神様に並べ立ててから願います。願うだけじゃない、ああもします、こうもしますといいます。おかげさえ頂いた曙にはと申しますけどです。実際おかげを頂いた暁にそれを実行する人は極少ない。只苦し紛れにいいよるとだから、根からこんから言いよるとじゃないからです。私いつもその笑い話の様だけれども、之は本当の事だと思うんです。
奥さんが出産する。大変な難産で傍らで見ている親父が気が気じゃない。そこで日頃拝まない神様に、神棚には灯りを上げて一生懸命拝む。どうぞ安産のおかげ頂かせて呉れと言う訳です、どうぞどうぞというて願う。そしてどうぞここに安産のおかげさえ頂ければ、それこそ金の塔のお供えでもさせて貰うと言う様な願いをする。それを聞いた嫁さんが苦しいながらいうた。今の家の所帯であなた、金の塔聾をお供えするてんなんてちいうちからん、どうして出来ますかというた。
そしたらその親父が云うた。そげなこと云わんで早う産め。今俺は神様をだまくらかしよるとこじゃらち言うた、始めから神様をだまくらかしよると、そげなことは無かろうけれどもです、結果に於ては騙くらかすことになって仕舞うというのが普通のことじゃないでしょうか。もうこここのおかげさえ頂さえすれ 私は昨日お取次させて頂いた人の場合は、本気で日月の心になると言う事をです。
いや日月の心が本当に私に欠けておると言う事をです、知られて次の悟りが生まれたと見極めなさったのじゃなかろうか。神様がそこに次の難儀な問題もおかげもです、楽だというて下さる程しのおかげになって來るのであるという風に思いました。昨日は五十八節の最後のところ頂きました。今日は五十八節の前半のところをね、今日は頂いたんです。それをいわゆる最近教団で言われるお取次の道の実現としてと言う言葉が沢山使われますが、そのことを私はどうなければならないかと言う事を内容に申しました。
御取次の道の実現として、先ず私共は立教神伝をしっかり頂かねばいけません。そこに金光様のいわゆる御取次の道であるという事のです、意味がよく分かって参ります。んなら、いお取次頂いておかげ頂いたら、どの様なことにならなければいけないか、いわゆる神も助かり氏子も立ち行くと言う事にならなければならんのです。私が貰いさえすれば、おかげを頂さえすればというのじゃない。神も助かり氏子も立ち行くという私しゃおかげになって来なければならない。
そこのおかげをそんなら頂く事のためには、次の天地書附というものが私共の一つの体臭とまでならなければならない。それが染み込んで仕舞わなければならない。金光様と願うことは生神金光大神、天地金乃神と願うことは、一心に願うことは、今月今日一心で頼んで行くと言う事は、私の心の中に、どうぞ和ぎ賀ぶ心を頂かせて下されいと言う事なのである。その和ぎ賀ぶ心を頂かせて頂くことの為に教えの実習というか実行があるのです。そこへ本気で信心の帯を締めなければならんのです。
そこから生まれて來るおかげ、そのおかげがです御取次の道の実現としての、例えば御造営と言った様な事になって参ります時に、それが本当の意味の御取次が成就して行くことの姿であるとこう思います。御取成就次信心生活運動、しかもその頂いたおかげがです、一つの運動とまでなって行かねばならない。それを私はその頂いたおかげを、いわゆる和賀心時代をです、いよいよ世界に広めて行かねばならないという訳であります。
人が盗人じゃというても、乞食じゃというても腹を立ててはならぬ。もう腹を立ててはならんとはっきり言っておられます。だから腹を立てんで済むおかげを頂く事のために、昨日または今日の御理解をいよいよ内容として行かなければならん。それを本気でそういう様な行に取り組むことに、もうこの男は大丈夫と神様が見極めなさったら、そのおかげはそれこそ楽だと神様から楽におかげを下さることの働きが生まれて來る訳ですね。
どうぞ。